あの日の前兆
この数週間、確かに怪しい動きはあった。
定年まで当然のように勤め上げるタイプの経理部長が、突然退職したこと。
個人的にはまったく関わりのなかった監査法人から、なぜか私宛に売り上げ計上について問い合わせがきたこと。
さらに、弁護士から社長宛への頻繁な電話があったこと。
残された経理部員からは「この会社、そろそろ危ないかも」と耳にはしていた。
とはいえ、前年度は過去最高の売上を記録していたし、何より社長はとんでもない金持ちだ。
せいぜいM&Aで吸収されるのか、あるいは上場でも狙っているのか——その程度にしか考えていなかった。
不穏な会議室
倒産前日の朝。
出社すると、部長クラスが会議室に集められていた。
扉の向こうからは、ときおり怒号のような声が漏れ聞こえる。
何かただならぬやりとりが行われていることは、誰の耳にも明らかだった。
やがて会議室から出てきた部長たちは、どこか虚ろな表情で、無言のまま外出していった。
その背中を見送ると、残された社員たちは一斉にそれぞれの“見解”を語り出した。
「倒産するんじゃないか」
その予想は、ほぼ全員のあいだで一致していた。
不安を口にする者もいたが、なぜか妙な連帯感があって、社内の空気は意外と冷静だった気がする。
そして、夜
その日、私は落ち着かない気持ちを抑えながら、いつも通りに業務をこなした。
終業時間になると、多くの社員は帰宅していった。
営業部に所属していた私は、直属の部長から
「帰社が遅くなるから、仕事が終わったら先に帰っておいていい」
という電話をもらっていた。
とはいえ、元々帰りが遅い部署でもあり、なんとなく皆で部長の帰りを待つことにした。
夜10時ごろだっただろうか。
部長がようやく戻ってきた瞬間、営業部員が一斉に詰め寄った。
「何が起こっているんですか?」
最初はのらりくらりとかわしていた部長だったが、やがて根負けしたように、ぽつりぽつりと語り始めた。
部長の口から告げられた現実
「これから話すことは、弁護士から明日まで口外しないよう言われている。誰にも言わないでほしい」
「明日、会社がなくなるわけじゃない。社員がすぐに路頭に迷うこともない。落ち着いて聞いてくれ」
「倒産にも種類があって、うちの場合は“民事再生手続き”。会社は残す方向で動いている」
「明日、正式に民事再生を申請する。午後から各方面から問い合わせや取り立てがあると思う。対応マニュアルは明日配る」
——倒産? 民事再生?
頭が真っ白になった。
ググっても、言葉の意味すら頭に入ってこない。
「倒産」という現実だけが、何度も何度も脳内で反響していた。
その夜、私は何も考えられないまま、静かに会社を後にした。
